羽州街道ノート

なんのための参勤交代?

津軽の殿様が参勤交代で通った桧山の松並木
(秋田県能代市)
 時の権力者のもとに出仕する参勤は鎌倉、室町時代から行われていましたが、豊臣氏の時代になると、より権力者への態度を明確に表すため、大阪や伏見に屋敷を設ける大名が増えてきました。さらに徳川家康が関が原の戦いに勝利すると、外様大名が江戸参勤を始めたり、徳川氏に対して謀反の意思がないことを表すため、徳川氏から与えられた江戸屋敷に妻子や母親を住ませたりしました。
 慶長8年(1603)、家康が将軍になると江戸参勤は急増しました。寛永12年(1635)には3代家光が参勤交代制度を定め、大名などは毎年4月までに江戸参勤をするよう命じました。当初、交代の時期は1年おき。つまり1年は国元、1年は江戸に住むよう定めたのですが、8代吉宗の時代(享保7年・1722)に、財政難を理由に上米(あげまい・幕府に米を上納すること・一万石につき米百石)を命じ、代わりに3年に1年だけ江戸に住めば良いとするなど、制度は徐々に変化し始めました。

 秋田藩では享保9年(1724)、道中の雪が多いため3月中の江戸到着は困難なので、出発を遅らせても良いかと幕府と交渉し、「勝手次第」という答えを引き出しています。同じようなことは弘前藩でもあったようですが、事前に江戸参府の時期を変える交渉するなど、以前は考えられなかったことで、制度が緩み始めた証しといえます。
 よく参勤交代は大掛かりな大名行列を組みことや、江戸屋敷の維持に多大な費用を使わせ、大名の力をそぐのが目的だったといいますが、それは結果論のようです。本来は幕藩体制の維持が最大の目的で、幕府の権威の象徴が参勤交代だったといえます。幕末になり参勤交代を始めとしたさまざまな制度を緩和した頃から、たがが緩んだように幕藩体制はガタガタとなり、参勤交代どころか、幕府そのものが瓦解したのです。
 

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