イザベラ・バードの東北・北海道の旅程


イザベラ・バード
I sabella Lucy Bird Bishop
(1831〜1904)

 英国ヨークシャー生まれ。1854年からアメリカ・カナダを旅行し次いでオーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、ロッキー山脈。1878年に日本、香港、マレー半島、、カイロ。その後カシミール、チベット、インド、モロッコなど70歳になるまで世界を旅行探検しました。

 明治11年(1878) 5月21日、イザベラ・バードは太平洋を横断する長い船旅の末に横浜に上陸しました。横浜や東京とは違う「本当の日本」を見たいという思いで、当時外国人にはほとんど知られていなかった「北国」へと旅立ちました。
 バードが「北国」へ向けて東京を出発したのは日本到着から20日ほど経った6月10日のことで、ゴム製の浴槽、旅行用寝台、折りたたみ椅子、空気枕、アーネストサトウの「英和辞典」などを携え、18歳の男の通訳兼従者・伊藤を伴っての馬上の旅でした。日光から会津、新潟を経て置賜に入り、その後、秋田、青森、北海道と踏破し、函館から船に乗って9月17日に横浜に戻りました。
 村人の好奇の視線を浴び、駄馬に痛めつけられ、蚤や蚊に悲鳴をあげながらも、「本当の日本」の姿を求めて忍耐強くたどったその旅は、全行程1,600km3ヶ月余りに及ぶ大旅行で、この旅の記録は2年後、「日本奥地紀行」(原題「日本の未踏の地」)としてイギリスで出版され、1ヶ月で三版を重ねるベストセラーとなりました。
 そこには、西欧化の波に洗われていく以前の日本、彼女が求めた「本当の日本」の姿がいきいきと描き出されています。


イザベラ・バード「日本奥地紀行」(明治11年)より
米沢盆地の景観 明治11年7月13日ー「アルカディア」
 たいそう暑かったが快い夏の日であった。会津の雪の連峰も、日光に輝いていると冷たくは見えなかった。米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉街の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてそれを耕作している人々の所有しているところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは、圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅力的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見わたしても豊かで美しい農村である。・・・・・・・
上ノ山温泉の魅力
 私はここ(上山)へやってきたのである。ここはそこ(赤湯)から10マイル離れたところで、りっぱな新道を通って、興味ない水田と低い丘のある広い谷間を登ってくる。すると砂利の多い高い丘に囲まれた小さな平野が眼前に開けてくる。その丘の傾斜地に上ノ山の町が心地よく横たわっている。人口3,000を越す温泉場である。今はお祭りの最中で、どの家にも提燈や旗が出してある。群衆は神社の境内にあふれている。神社のいくつかは丘の上にある。上ノ山は清潔で空気がからりとしたところである。美しい宿屋が高いところにあり、楽しげな家々には庭園があり、丘を越える散歩道がたくさんある。ここは日本でもっとも空気がからりとしたいるところの一つだといわれる。もしここが外国人の容易に来られる場所であったら、美しい景色を味わいながら各方面にここから遠足もできるから、彼らにとって健康的な保養地となるであろう。
 これは大きな宿屋で客が満員である。宿の女主人は丸ぽちゃのかわいい好感をいだかせる未亡人で、丘をさらに登ったところに湯治客のための実にりっぱなホテルをもっている。彼女には11人の子どもがいる。その中の2、3人は背が高くきれいで、やさしい娘たちである。私が口に出して誉めると、一人は顔を赤く染めたが、まんざらでもないようで、私を丘の上に案内し、神社や浴場や、この実に魅力的な土地の宿屋をいくつか見せてくれた。私は彼女の優美さと気転のきくのにはまったく感心する。どれほど長いあいだ宿屋を経営しているのかと未亡人にたずねたら、彼女は誇らしげに「三百年間です」と答えた。職業を世襲する日本では珍しくないことである。・・・・・・・

上ノ山の美しい娘
山形市ー近代化と繁栄
 すばらしい道を三日間旅して、60マイル近くやってきた。山形県は非常に繁栄しており、進歩的で活動的であるという印象を受ける。上ノ山を出るとまもなく山形平野に入ったが、人口が多く、よく耕作されており、幅広い道路には交通量も多く、富裕で文化的に見える。道路の修理は、漢字の入ったにぶい赤色の着物を着た囚人たちがやっていた。彼らは土建業者や百姓に雇われて賃銀をもらって働いているから、英国の仮出獄人に相当するものである。彼らは、囚人服をいつも着ていなければならないということ以外は、何も制限を受けていない。
 酒巻川で私は、初めて近代日本の堅固な建築ーすばらしくりっぱな石橋で、ほとんど完成するところであった。−を見て、とても嬉しかった。私は、奥野仲蔵という技師に自己紹介をした。彼はとても紳士的で、愛想の良い日本人であった。彼は私に設計図を示し、一生懸命に説明をしてくれた上に、私に、お茶とお菓子を出して接待をしてくれた。・・・・・・・・・
「ほれぼれ」とする村山盆地
 山形の北に来ると、平野は広くなり一方には雪を戴いたすばらしい連峰が南北に走り、一方には側面にところどころ突き出た断続的な山脈があり、この楽しく愉快な地域を取り囲んでいる。ほれぼれとして見たくなる地方で、多くの楽しげな村落が山の低い裾野に散在している。温度はただの70度で北風であったから、旅をするのは特に愉快であった。もっとも天童から先へ三里半も行かなければならなかった。天童は人口5,000人の町で、ここで休息するつもりであったが、貸付屋(貸座敷)でない宿屋はすべて養蚕のためふさがっており、私を受け入れることはできなかった。
「ロマンチック」な金山峠
 今日は温度が高く、空は暗い。りっぱな道路は終わりを告げ、またもや以前の困難な旅が始まった。今朝新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林で覆われ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。その麓に金山の町がある。ロマンティックな雰囲気の場所である。私は正午に着いたのであるが、1日か2日ここに滞在しようと思う。駅停にある私の部屋は楽しく心地よいし、駅逓係はとても親切であるし、しかも非常に旅行困難な地域が前途に横たわっているからである。それに伊藤が日光を出発してから初めて鶏を一羽手に入れてくれたのである。・・・・・・・・
平凡社 東洋文庫 高梨健吉訳 イザベラ・バード「日本奥地紀行」から引用しました。
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